「暴力指導」から気付いたこと

日本人が「ある程度の暴力は必要」と考える、根本的な原因、という記事が目に入る。

昨今、体育会系の組織で「暴力指導」が行われていたことを耳にしても、子供の頃から家庭で、学校で、クラブで、そう行った環境の中で育ってきた年代ゆえ、あまり大きな問題として捉えてなかったフシがある。

ただ、自分自身は今まで、子供や奥さんはもちろん、他人や動物等にも「暴力」的な行動をとった経験は少ない。それは話してお互い協力しあって問題を解決していく、という思いがあったからだと思うが、一つだけ、昨年亡くなった母に対し、手を出す素振りでいうことを利かそうとしたことがある。

もう高齢で病弱、かつ軽めの認知症でもあったので、家庭介護に入った初期の頃は、普通の人と同じ扱いで腹立たしいことが続いたが、何かの時、言い返す母に思いを押し付ける行動がそれだった。もともと、アル中で時たま酒乱っ気な父が、母に手を出すことがよくある環境で育ち、子供ながら嫌な思い出として記憶にあり、小さい頃からそれは許せない行為として頭に叩き込まれていたせいか、その「手を出す素振り」というのも、本気ではなく、かなり冷静な自分であったが・・・。

自分が病弱な子供を持ち、育て、どういう風に親の言い分を通すべき「しつけ」するか、という思いの反対側に、子供自身が自分一人でしっかり生きて行けるよう仕向けるにはどうしたらよいか、世の親御さん同様悩み迷いながら過ごしてきた。

難病といっていいだろう子供の健康維持管理を第一に、併せて一人前の大人に育てていこうとする思いは、怒ってすます、などというレベルではない。それこそ真剣に話を聞き、本人の身になり、それぞれの問題解決にはどういう方法があるか探し考え、悩み苦しみつつ、試しながら前進と後退を続ける日々だったように思う。それこそ病院へ行く時間まで待てない切迫した状況に立ち向かうために。

記事は、軍隊教育、信仰、神、信者、体罰などと広がる内容だが、手を上げない体罰としてハラスメント(いじめも含め)も含めるなら、それ等に負けない自分や仲間(チーム)、あるいは民衆を作り上げる知恵や知識を、スマート(上手に賢く)に身に付ける(付けさせる)ことも大事だし、納得できないことには立ち向かう勇気も必要だと思う。

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