中国化する日本・・から

こちらの記事から
TPPをめぐる論議の異様な盛り上がりを見ていると、日本人の内向き体質はグローバル化の時代にむしろ悪化しているような気がする。そして仮想敵として出てくるのが、相変わらずアメリカの陰謀だ。本書は、こういう日本人の世界とのつきあい方を中世以降の歴史から考察している。

内容は以前の記事でも紹介したように、日本の歴史を中国化と江戸時代化というキーワードで整理したものだ。これはいささかわかりにくいが、ポパーの言葉でいうとそれぞれ「開かれた社会」と「閉じた社会」に相当する、と考えればいいだろう。ハイエクの分類でいうと「大きな社会」「部族社会」に当たる。

人類の歴史の大部分は「江戸的」な部族社会であり、開かれた社会の中にも閉じた社会のモラルは残っている。ポパーハイエクはそれを批判したが、著者も繰り返し強調するように、両者に本質的な優劣はない。ただ社会が流動化すると「中国化」し、部族社会のシステムが機能しにくくなる。これに対して、あくまでも部族社会を守ろうとするのがTPP反対派のような「江戸時代化」のベクトルである。

世の中の通念では、西洋の産業革命で「近代」が始まったとされているが、そのはるか前(10世紀)の宋代には、中国は産業革命の一歩手前まで来ていた。伝統的な部族社会が分解して全国的に人口が移動し、身分制度もなくなって「大きな社会」が成立した。それをグローバル化したのがモンゴル人の元だったが、これは版図を拡大しすぎて自滅し、明では中国は「江戸時代化」してしまった。有名な鄭和の遠征も後が続かず、代わって西洋諸国が世界を征服した。

日本の歴史は宋代までは中国とシンクロしていたが、戦国時代の混乱を経て「閉じた社会」に回帰した。戦争を避けるための休戦状態としてつくられた徳川幕府の平和が250年も続き、人々を身分で分断して土地にしばりつける江戸時代型システムが日本人の一つの伝統になった。多くの人が「美しい伝統」として想定するのは、こうした部族社会のイメージである。

確かに江戸時代はきわめて洗練された文化を生んだが、経済的には停滞をもたらし、食うに困った下級武士の不満が「尊王攘夷」のパワーとして噴出した。そして明治維新は「中国化」の方向をめざすが、それは結局は政治家と官僚の割拠する江戸時代型システムに変質し、天皇が皇帝のような絶対的権力をもたない日本では、軍部がその地位を簒奪して暴走してしまう。

戦後は、こうした江戸時代的システムが偶然、20世紀後半の経営者資本主義と相性がよかったため、日本は奇蹟的な高度成長を遂げた。しかしその幸運も80年代までで、英米自由主義的な改革と同時に始まった中国の改革・開放によって全世界的な「中国化」の時代が始まった。ところが日本の政治家も企業もその流れに乗り遅れ、いまだに江戸時代に回帰しようとしている。

・・・という荒っぽい話だ。もちろん1000年の歴史を300ページで語ることはできないので、学問的には疑問もある。「これがプロの常識だ」といった表現が何度も出てくるが、この図式はよくも悪くも通説ではなく、著者の見解だろう。しかし人々が「大きな物語」を語らなくなった現代に、32歳の研究者がこういうスケールの大きな歴史観を展開するのはおもしろい。

日本が「開国」することは、好むと好まざるとにかかわらず避けられないが、その先にある最大の難問はアメリカの陰謀ではなく、21世紀の主役になる中国である。開かれた社会の中でも、中国と西洋の最大の違いは民主主義の有無である。産業化の途上では中国のような(宋代以来の)専制国家のほうが効率的かもしれないが、これは経済的にも軍事的にも厄介な相手だ。それを内在的に理解するために、本書の一読をおすすめしたい。

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